アビスパ福岡と福岡ソフトバンクホークスが、好きです。
2006年2月26日

雑感

それは間違ってる。

そう修正してくれる人がいるのはありがたいことだ。誰も何も言わなくなったら、フワーっとどっか行っちゃうやろうし。正しいときは正しいよと強調してくれて、間違っているときはためらわず間違いを指摘する。仲間のあるべき姿やと思う。たとえ指摘した/されたことが原因で揉め合いや喧嘩に発展しようともそれは決して不毛なものではない。それはお互いにとって次へと繋がるものだと信じている。黙っておくのが仲間と言うなら、その口は何のためにあるのか。反論するため、程度の低い愚痴を言うためだけにあるのか。その目は何のためにあるのか。相手を冷ややかに見るためだけにあるのか。そうじゃないやろ。仲間が間違った方向にいってしまいそうになったら、それを制止して正しい道へと導いて、最後にみんなで笑うってのが本当じゃないの。誰も悲しまんし。
別に誰に向けて言っているわけじゃない。書いてる自分も含めて、不特定多数に向けて発信している。

Posted by ふくやん at 2006年2月26日 04:37 | TrackBack

トラックバック

この記事のTrackBack URL:
http://www.1-5-6.net/mt-tb.cgi/603


コメント
1 : ころん  2006年2月26日 15:08

でも、相手にとっては善であっても自分にとっては悪であるとき。

世界には物事がたくさんあって
それらの性質を善悪・正誤、どちらを取るかは自分次第。
それを選んでく事で価値観は育って
個性というモノが生まれていくんじゃないか

そう考える私の、
友達が、あることを正と信じ行おうとしていたら、
私はその「あること」を誤と思うのなら、
やっぱり止めなきゃならないの?
でも「あること」を正と見る彼女の価値観を尊重することは、私の正なのに。

2 : 殺人鬼  2006年2月26日 15:53

>>2 ころんさん
むずかしい問題ですね。

例はあれですが、【消化器の弱い人】に[豚骨ラーメンをすすめる豚骨ラーメンの好きな人]がいたとすれば、
【前者】は口の中では旨みを味わえても、それを胃に通したとたんに下痢をしたり嘔吐する可能性はあるわけで。
[後者]は味噌は邪道なんて思っているかもしれない。
器質的にわかりあえないところはあると思います。

あと、後天的なことでもわかりあえないことっていっぱいありますね。
民族紛争なんて、宗教における神そのものが違うがために
神が提示する信仰の違いから、思想や文化的になかなかわかりあえないところが多いし、実際戦争紛争多いですし。

でも、『共通項』がないと、考えの違う者どうしわかりあえるところないまま死んでしまう気がするんです。
『それ』は穀物・野菜・肉・調味料など食べ物であったり食器であったり、文字であったり、
公衆衛生(病院・水・風呂など)、音楽、絵画・・・いろいろありますが、
『白旗掲げている人を殺さない』『楽しんで生きる』という『感情手・情緒的な共通項』がないなら、すでに3回目の大きな戦争で世界がボロボロになっていたかもしれないわけで。

昔、キャプテン・ハーロックがこんなこと言ってました。
『たとえ袂を分かっても、それを乗り越えて、若者が未来を作るんだ』

3 : ふくやん  2006年2月27日 10:02

価値観の違いは否めないですね。
100万人いたら100万通りの考えがあるはずですし。
悪いと思うことは悪いと言っちゃっていいと思います。
ただし押し付けにならない程度に、ですが。

この人の価値観はこうなんだ、とお互いを知ることにも繋がります。

黙ってるのが一番良くない。

4 : ころん  2006年2月28日 21:40

私の大切な友達は、自分の考えに誇りを持っていて、
それでいて、周りの意見にも同調しようという子なんです。

でも何だかある日、彼女の価値観に私が合わせるわけでもなく言葉を返せば、
何だか煙たがっているのを、薄々感じていたんです。

彼女はその後、魂について疑問を持って、
生と死について求めだして、彼女の考えはなかったから、
私の考えを伝えてみると、唯物論寄りな私の考えは、
彼女をとてもすっきりさせたように見えました。

私は彼女に「少なくとも自分自身の死はあり得ないのだと思う」と言ったのですけど、
彼女は少し受け止め方が違ったみたいで、
自身の死にほんの少し意味を掴んでいるようだった。

彼女は家族についてひどく悩んでいたけど、
私にさえそのつらさを伝えることは少なくて。
家族の悪口に結局なってしまうからとか、
惨めな自分をさらすのはお涙ちょうだいのようで更に惨めになるからとか、
色々理由をつけていたけど、結局私は煙たかった、のが本音なんだと思う。

悩んだ末、彼女は無を求めて死を求めました。
でも私は彼女は死なないって確信してました、
彼女はきっと、死の先に無がつながっているのかどうか、
知り得ないその脆さを恐れるだろうと思ったから。

彼女は、夜9時に、私に祈って欲しいと言ったんです。
彼女は縁起法を信じていたから、
私の祈りが何かにつながって死ぬ気がなくなると思ったんでしょうね。
私は祈らなかった。
でも彼女は案の定断念したんです。当然でした。

その後に、彼女はやっと全てを伝えてくれたんですけど、
今、彼女は家を追い出されて叔母さんの家にいるんです。
叔母さんは叔父さんをガンで5年前に亡くしていて、
彼女は仏壇の前でなくおばさんの姿を見て、
おばさんは「死にたい」のかもしれないと思ったそうなんです。
彼女はおばさんと一緒に心中するつもりだったんです。
でもふたを開ければおばさんはむしろ生きたいと思っていた。

無を手に入れれば悲しみはなくなって、
他人が悲しむことも気にとめなくてもいい、
彼女は私の考えを聞いて、そう受け止めてしまったんです。
彼女は人の価値観を鵜呑みにする人なんかじゃなかったし、
私の価値観に影響を受けて、死をそう感じたの。
私の価値観は、そうじゃなかった。
と言うか、彼女は「自分」ではないから、私にとって彼女は死ねたから。

こんな風にも、価値観の違いは生まれて、
でも彼女の価値観は間違いなく、私の価値観や他様々なモノから生まれているから、
共通な点を持っているのでしょうね...

こうやってなんかただ文章を連ねてる私は、
このふくやんさんの26日の日記と、
殺人鬼さんとふくやんさんのコメントで
似ながら違う価値観をまた身につけて。

本当にありがとう御座います。

5 : ふくやん  2006年3月 2日 01:02

なるほどね、、めっちゃ難しいね。
人間ってひとりひとり違うように作られとるから、
軽い話題にしても重い話題にしても価値観のズレってどうしても生じちゃう。

そんな時にどう対処するかが個性だと思うし、
対処の仕方が分からなくてどうしようもない時は
お互いにゆっくりゆっくり歩み寄っていけばいいと思うよ。

>>4を見る限り、その友達はころんちゃんのことをとても大事な友達と思ってくれてるはずだよ。
そうでなかったら、相談を持ち掛けられたり祈りを求めたりするはずないやん。

ゆっくり歩み寄って時が経てば、きっと良い方向に向かうよ。

6 : ころん  2006年3月 2日 14:36

どう対処するかも個性。
そうかもしれないですね。
肩の荷が軽くなりました、とても。
あと、まさか返事が来るなんて。
すごくうれしい。
ありがとうございます。


この記事にコメントを書く